浄土信仰の宗門の称名は、阿弥陀仏が、この身が阿弥陀仏の本願により、そのまま極楽往生がかなう身であることを人々に知らせるため人々の口から出て下さっているものと捉えられ、人々に今の安心を与えるものとして大切にされている。そしてその安心の中に生きることこそ真のよろこびであり、救いであるとされ、「南無阿弥陀仏」の口称は、功徳を求めるものではなく、感謝の行であるとされている。
称名で唱える「名号」のうち、「南無釈迦牟尼仏」の釈迦牟尼仏は、確かに正史においても実在の人物とされている。しかし、他の如来は歴史上存在しない。そのことから「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」という如来は架空の存在で想像上の産物(フィクション、虚構)などと否定的に捉える見解がある。一方で、そもそも「阿弥陀仏」とは、姿かたちなく、無量であり不朽である「真実」を表すものとして歴史上の人物である釈迦により説かれたものであるから、釈迦の真意はむしろ「阿弥陀仏」に込められていると考える人もいる。
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これに対し、法華経信仰の宗門の唱題は現世こそ重要、というわけで現世を逞しく乗り切る、という積極的指向性(現世指向)が有る。
(但し、現世指向は日蓮系固有のものではなく、真言宗や天台宗にもある。)
唱題で唱える題目は経の題名であり、信仰の対象が経典として実在する。日蓮は経の文字のひとつひとつを金色の釈尊と見るべきと書いている。経典の文字はさすがに如来には見えなくても、最低限、字には見える。漢文の法華経(妙法蓮華経)ならば、漢字の羅列には見えるはずであり、文字として存在する安心感がある。仮に経の内容が架空ないし嘘でも、経典の文字が明らかに実在することは正しいと言え、真実と言える。